10月 262015
 

 オフの日に,車を走らせてはいろんな町を歩いています。天高く馬肥ゆる秋とはいいますが,朝のキリッとした空気と澄み切った青空が象徴的です。そして,行く先々の旨いものが,「我」肥ゆる秋を象徴します。

 さて,そんなオフだというのに,職業病か,どうしても随所にある「塾」というものの存在を視界から消すことはできず,もとい,しげしげと立ち止まって見ていることが多いのですが,僕らが受験生時代(正確には,僕らがいた田舎という場所的なものもある)とは,塾のあり方が一変してきました。

 ビルをどーんと構えた大手の予備校はさておき,個人塾,FC系の小規模テナント塾が所狭しと実績やテストの伸びPOPを窓に貼り,そして,様々なうたい文句でうちの塾に来い!と言っています。ここまではそう昔も今も変わりませんか。

 しかし,ここ最近は,授業を売りとしてうたわない塾が増えてきたように思いまして,これは個人的には非常に違和感を覚えます。寺子屋的とか増えましたね。「授業をしない」とまでいう塾すら存在する。うたい文句だけでは全然分からないので,結局いろいろと市場調査をするわけです。

 そこで私の結論は,
 「お気持ちはわかります。」
 いわゆる「大集団での受け身の授業」=「授業」ということへのアンチテーゼですね。なるほど。
 (「授業」をいかに定義するか,ということによっていろんな解釈が可能ですね。)
 
 しかし,授業の定義を如何にするかはさておきとして,大集団での受け身の授業の否定が「授業をしない」という全否定になることは随分雑な議論ですね。
 とりあえず,授業の良さを全部捨て去ってもなお効果的に合格させるメソッドと自信がそこにはあるのだろうと善意解釈しておきます。

 さて,西荻塾としては,「授業でなければ作れない,実現し得ないものがある」と思っています。
 (定義:西荻塾の授業は,「ソクラテスメソッド型の授業」としておきましょう。)
 塾だけに限ったことではないですれど,なんでも,内々に個人主義になる傾向は,私は古いと言われても,抗おうと思います。個別指導オンリー塾への抵抗はそこにあります。西荻塾は,「授業をする」ことによって塾たるものとして存在すると宣言しておきます。

 では,西荻塾が授業で目指すものは何か。
 「緊張感」と,「仲間」です。
 
 そんなものなくても丁寧に面倒を見れば,大丈夫だ。そう言われそうです。
 しかし,自らの相対化こそ受験でもっとも必要とされる手順であるところ,個人主義でそれが達成できるのか。
(*ここでいう「相対化」とは,「自分がいま,どの位置にいるか。自分の今の歩みはどうかを客観的に評価すること。」とざっくりさせておきます。もっといろんな意味を込めたいのですが,とりあえず必要な分だけ。)
 確かに,指導を個人主義的にしても,客観的に講師(塾)がある程度の「相対化を図ってあげる」ことは可能でしょう。模試でも一応わかるのかな?
 しかし,そもそも,「相対化を図ってあげる」というほどあなたたち講師は万能か?烏滸がましいのではないか?(自信を持て・・・根拠のない自信でもよいと言われます。そう思います。しかし,「なんでもしてあげるからおいで」というのは,根拠と言うよりは無責任なもののように思えて仕方がない。)

 私は,こうした相対化は,仲間との緊張感が育てるものと考えています。仲間と切磋琢磨して磨き上げた相対化の能力をモチベーションがささえれば,人は自立して成長するものだと考えています。
 したがって,塾の役割として,塾生たちの相対化の「手助け」はもちろんします。たくさんの資料は与えます。データの読み方も教えます。経験則もお伝えします。しかし,社会に出ておられる方ならおわかりだと思いますし,繰り返しになりますが,生徒たちに備わるべき相対化の力そのものは,結局他者の中での緊張感と他者=仲間との折衷のなかで,一番身についていくものであろうと思います。

 仲間とともに,緊張感をもって,自らの解答や思考の道筋を責任もって発表し(出力への責任=答案作成能力の鍛錬),高め合っていくこと。その場は,塾においては,まず授業という空間である。授業を捨てて,個人主義でこの点を補完することは難しいと思います。

 そういう場作りができているのか,迷いは続いています。しかし,その迷いが終わることはないから,一生悩み続けながら講師業を続けていくことになると思います。

・・・えっと。人見知り?ですか?私もそうです。よろしくお願いします。
大丈夫ですよ。暑苦しいのは苦手です。でも,一歩だけ,踏み出してみましょうよ!
(人見知り専門塾ではありません)

文責:赤星

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