5月 042015
 

「受験勉強なんて役に立つのか」
文責:高校部総括 赤星一統

 毎年のように何人もの生徒達から発せられる問いです。もっと根源的な問いとして「学校でやる勉強ってやる意味あるんですか?生きていく上でなんにも役に立たないんじゃないですか?」というのもよくあります。特に高校数学の授業はそういう問いに直面することが多いです。寂しいですが。
たとえば「数学なんてやる意味あるんですか?文系なのに。」この質問に文部科学省的に答えるとすれば,「数学を通して論理的思考力を修得する」ということになります。この答えについて,議論をふっかけることはしません。まさにその通りです。
しかし,実際に sinθやlogxを目の前にして苦戦する子どもたちに,それでは漠然としていて効力を持ちません。 毎回そういう質問を受けるたび正直苦労してきました。結局,「受験に受かっていい大学に行きたいのならあきらめて。どうせやる,もとい,やらされるのならば最大限の効果が得られた方がいいでしょう。」と逃げるような答え方をしてきました。効力?もちろん,塾は少なからず受験を意識した者の集団ですから,ないわけではないが。

 確かに,まだ受験が遠い生徒達からすれば学校の勉強は一つの「やらなければ仕方ない」ものであって,そのものが直接的に実際の生活に関わっているかというとその実感がもてない,というのは事実でしょう。私でもかつてそう感じたこともあります。文系なのに数学をやる,理系なのに古文をやる,のように「〜なのに,」という言い方がその象徴たる言い回しです。いかにも無駄といわんばかりに。それよりも,もっと実利的なものを学んだ方がいいのではないのか。
 では,なぜ全ての子どもたちが不快に感じる勉強を強制する世の中の仕組みが存在するのか。まずは,いささか遠回りではありますが,学びの意義について考えてみる必要がありそうです。
 生物学的な一つの通念として,「外界の変化に適応して変化できる個体は,そうでない個体よりも生き延びる確率が高い」というものがあります。生物が絶えず変化し,その細胞一つ一つが常に代謝し続けるのはこうした変化に対応する生存戦略上の必然です。この論理を学びに当てはめた考察があります。内田樹氏(仏文学者)はこう指摘します。
 「子どもが学ぶべきことは『変化する仕方』です。学びのプロセスで開発すべき事は何よりもまず“外界”の変化に即応して自らを変えられる能力』です。」(内田樹『下流志向』講談社刊)
 外界の変化は往々にして残酷です。かつて全世界を牛耳ったハ虫類の巨大生物が一瞬にして絶滅したことはご存じでしょう。このような厳しい自然界で,生き物たちは生まれては絶滅し,その繰り返しのなかでときには一見非効率な,それこそ数から質へ,すなわち子孫の数を減らしかつ相手を探し求めるものすごく手間のかかる有性生殖を選んでさえもなお,外界の変化に対応してきました。ここに生命の逆説性をまざまざと見せつけられます。
 そして,自らの体温を代謝によって一定に保ち多少の気候変動にも耐えられる動物たちが登場し,我々の祖先となっていきます。今や全生物の頂点に立つヒトでさえ(そうでない,という批判はさておきます),決して順風満帆ではなかったはずです。
 ヒトは,裸のままでは極めて無力な存在です。空も飛べなければ,足も遅い。重い頭を抱えて二本足でわざわざ歩く。肌は下界の気温変化に容赦なく痛めつけられる。それでも,なお,このヒトという生物が生き延びてきた理由は一つ,環境の変化と伍していくために,ヒトは知能を用いて対応してきたということです。ヒトが究極的にこれまでの生物と違うところは,自らの弱点を知能をもって補い,そして,主体的に学びを習慣化させることができることです。ヒトは,この知能を駆使して自然界を学びつづけました。その結果は,直接的に実利に結びつきヒトは爆発的にその数を増やしていきました。
 しかし,すでに古代ギリシアや古代インド・中国をはじめ,原始社会をいち早く脱した社会は,すでに紀元前から,一見すると直接的に実利に結びつかないような学びをも習慣化させていた。哲学や数学,近代というシロモノが殺したという「神学」,それこそ,「意味がなく」,その日を暮らすことに精一杯だった庶民達の目に触れることがなかったもの。
 しかし,こうした「無駄な」こと,すぐに「役に立たないもの」は,それこそ知的遊戯で終わったといえるか。先に述べたとおり,進化の過程は,目の前の実利によってのみ達成されるものではない。それこそ,非効率こそがもっとも最適であるという逆説的なこともあるわけです。あるxを限りなく0に近づける,という一見すると謎の試行は,それこそ微分積分学の基礎となる考え方であり,それが力学を飛躍的に進歩させ,現代文明があるわけではないですか。まだ,よく分からないかもしれないけれど,経済政策を決める際の基本的フレームワークである経済学であっても,あるxを限りなく0に近づける無駄な作業がなければ,成り立ち得ないのです。
 要するに,学びの本質も,生物が進化の過程でそれこそ学んできた逆説に根ざすものというべきです。こうした学びの試行は積み重なってときには横断縦断を繰り広げ,そして洗煉し体系化するでしょう。もちろん,体系化の過程で取捨選択も行われ,大半のものは捨象されることになるかもしれない。しかし,それは体系の洗煉化のプロセスであって,無駄なものではない(うまそうなものだけのつまみ食いでは,ほんとうにおいしいものはわからないのです)。こうして,体系化された学問は,大いに我々の文明形成に貢献し,ヒトから「人」へと進化を遂げてきました。
人は,こうした事実を経験則として黎明期から気づいていたのでしょうか。だから,どんな時代であっても,どんな人間であっても辛いよりも楽な方がいいに決まっていますが,そこをあえて辛い学びを積み重ねてきたのか。それとも,逆説性をもって外界の変化に適応するという生物本来の本能がそう突き動かしてきたのか。いずれにせよ,学びこそ,人が人たるゆえんである,というべきでしょう。

 このような人類学的な学びの意義を考えたとき,「受験で試したいのは何か。」という問いに一つの結論を導くことができます。それは,学びのプロセス,センスやヒラメキだとかではない,まさにそこまでの過程を一つ一つ積み重ねてきたかどうかを試したいのではないか。いわば,「学ぶ力」。
確かに,学びのプロセスを大事に積み重ねてきた者は,積み重ねてきた学びのフレームワークを通して今後も学びのプロセスを継続していきます。常に訪れる社会情勢の変化や,嗜好の変化などさまざまな変化に晒されるなかで,いかにビジネスを成功させるか,どのような政策を用いて社会厚生を改善するか,こうした崇高な目的に果敢にチャレンジする人は不断に学び続けています。何も勉強やビジネスに限ったことではない。農業,職人の方々に至るまで,誇りを持ち胸を張って生きている人々は普段の学びを,不断に継続している。学びを継続する人,こうした人材を輩出するために,人は学校を作り学ばせるのではないか。どうやって学ぶか,をまず学んで欲しいから。
 西欧諸国に比べ明らかに出遅れていた19世紀に,日本がいち早く先進国への仲間入りを果たしたその背景に,江戸時代から大事にしてきた寺子屋教育,素早い国民皆学への対応があったことを忘れてはならないでしょう。
 よく日本の受験制度は,欧米諸国と比較して,「入るのが難しく,出るのが簡単」,というような批判を受けますが,日本の受験制度が学びのプロセスを試験しているのならばそれはとくに問題ではないでしょう。欧米諸国は学業成績(内申点)の算出方法が日本と比べて明確に体系化されており,それによってプロセスの積み重ねを見ているだけで,日本では内申点の算出にいささか主観的要素(学校の先生の好き嫌いや試験問題のばらつきなど)が強く,学校によってまちまちだったりしますから,そんな不確定な情報に頼るより,広範囲で難しい入試を課してみるのは効果的な手段といえるでしょう
つまらなく思える内容で,量も膨大で辛い受験勉強ですが,一つ一つ真剣に対峙して乗り越えていくそのプロセスは,将来研究職に就こうが,ビジネスの世界に身を置こうが必ず糧になります。社会に出れば,常に不確実性に晒されます。生物の進化の過程と同様,その不確実性は往々にして残酷な変化をもたらします。仕事が出来るということは,その都度その都度の変化に敏感に適応することが出来るということです。理科に社会に,古文に数学に,分野も多岐にわたり,その都度脳のさまざまな部分をフル稼働させる学習のカリキュラムは秀逸だと,私は思うのです(さらに,蛇足かもしれませんが,高校で学ぶ科目は,現代文明の基礎に他ならないと,たとえつまみ食いだと批判を受けたとしてもそう思うのですが)。
 以上からすれば,「受験勉強」に無駄はない,そう言えようかと思います。「受験勉強」としてステレオタイプ的に別物扱いすることがそもそも妥当ではなく,最高学府で学びを継続せんとする者を選抜することは当然の事理であって,そのための錬磨であると考えることはできないでしょうか。
 辛くても困難でも乗り切っていくだけの基礎体力を受験勉強を通して身につける,これが受験の意義であると考えます。それも,もっとも脳細胞がよく育つ10代のうちにできるだけの最大限の努力をして受験とおつきあいしてもらいたいと思います。西荻塾が,「どこまでも正攻法」というスローガンをたかだかと掲げさせていただいているのは,受験勉強を正攻法できちんと積み上げていくことは,決して間違っていないぞ,という意思表示でもあるわけです。
もっとも,現在の受験システムには確かに,硬直性がある。泥臭さが抜けてなおのこと,金太郎飴的な受験戦術が確かに通用してしまう。むろん,金太郎飴的な受験戦術のみで難関大学の入試が乗り切れるほど,甘くないことは今も昔もかわっていませんけれども。
 現在,中教審において,近い将来の大学入試制度の変革について,大詰めの議論を迎えています。センター試験の廃止も確実となりました。どのように,学びのプロセスを,学ぶ力を適正に評価するのか,固唾をのんで見守っている段階ではありますが,今も昔も,根幹にある受験の意義は変わっていない。だから,しっかり受験しよう,そう志があるのなら,真剣に受験勉強だって「やってみなはれ」(サントリー創業者の言葉)です。頭にびっしり汗を書いて,「あ,なるほど!」という体験を是非,受験を通じてたくさん経験してもらいたいものです。【了】

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